2017年 02月 17日
ルイスポールセン トルボー
上品なかたちから、やわらかな光がひろがります。
シェードは手づくりのガラスなので、ほんの僅か、傾いていたり、気泡が入っていたりしますが、それもまた味わいがあります。
白熱灯を何度かつけてみたのですが、半年ぐらいで切れてしまうのと、だんだん手に入りにくくなってきたので、今はLEDをつけています。
LEDに替えると、電気代はかなり下がりますが、どうしても光のひろがり方は白熱灯にはかないません。
白熱灯は上に向かう光がもう少し強く、シェードの根元の方まで明るくなり、浮かび上がるかたちが綺麗なのです。
それでも何とか全方位型のLEDで、白熱灯のひろがりに近づけています。
夜、この灯りの下で食事をしていると、時々、太宰治「燈籠」の最後のシーンを思い浮かべます。
何となくいつまでも心に残る場面です。
今夜は、父が、どうもこんなに電燈が暗くては、気が滅入っていけない、と申して、六畳間の電球を、五十燭のあかるい電球と取りかえました。そうして、親子三人、あかるい電燈の下で、夕食をいただきました。母は、ああ、まぶしい、まぶしいといっては、箸持つ手を額にかざして、たいへん浮き浮きはしゃいで、私も、父にお酌をしてあげました。私たちのしあわせは、所詮こんな、お部屋の電球を変えることくらいのものなのだ、とこっそり自分に言い聞かせてみましたが、そんなにわびしい気も起らず、かえってこのつつましい電燈をともした私たちの一家が、ずいぶん綺麗な走馬燈のような気がして来て、ああ、覗くなら覗け、私たち親子は、美しいのだ、と庭に鳴く虫にまでも知らせてあげたい静かなよろこびが、胸にこみあげて来たのでございます。
太宰治 「燈籠」 より (新潮文庫「きりぎりす」に収録)
by krd_aa
| 2017-02-17 06:36
| ・建築